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脳log[20200508]



2020年05月08日 (金) 今日から読み始めた『こころの処方箋』(河合隼雄)を知るきっかけは piro さんのツイートだったような気がしないではない(※勘違いなら、勘違いした原因は「耳が痛い」という共通点にある。ツイートも本もありがたい内容である)。この本を前提として昨日の話(20200507)がどのように繋がるか考えたい。■友人が自分に「俺はバナナが好きだ」と告げる状況を想像する。「そうか友人はバナナが好きなんだな」と心に浮かぶのは素直な反応で良いけれど、考えるべきは、「考える」と呼ぶにふさわしい精神活動は、友人が自分にバナナが好きだと告げる意味について考えを及ばせることだと思う。■ここで「俺はバナナが好きだ」を自分がよく知らない言語に置き換えてみると、頭の回転が速い人と遅い人の両方の気持ちが想像できる。よく知らない言語では、聞き取りに苦労するだろうし、単語の意味もうろ覚えで、知らない単語もある。「たぶん彼はバナナが好きだと言ってるんだろうな」というレベルの疎通ができたりできなかったりするのが「一般人」の対話だとする。(※「対話」ができないでグルーミングのような「会話」しかできない「一般人」も多いと思う。この2つの単語を使い分けることについて最近読んだ本に書かれていたが、どれか忘れてしまった)。■例文を日本語に戻して頭の回転を速くすると、「俺はバナナが好きだ」というのは当然の前提であって、思考はその先へ飛んでいる。それこそ一を聞いて十を知るように理解を深めていって、それでぶつかるのが理解したそれらの土台であり源である人間という存在ではないか。人間は単独ではなく他者との関わりの中で存在しているから、それら全体を把握しなければさらなる理解に近づくことができない。そんなのはほとんど不可能に思える。聡明な人ほどそれを知っているだろう。■昨日リンクした quora の記事の中のエピソード。「検査結果を伝えてくれた臨床・公認心理士さんのおっしゃった 「ギフテッドです。いままでよくがんばってきましたね」 という言葉は、涙が出るほど嬉しかったです。それは努力が報われたから……勉強ではなくて、どうやったら人と交わることができるのか思春期を通じてずっと悩み苦しんできた私に対するねぎらいの言葉だったからです。」 quora の人はこのレベルで他者を理解し、理解されたいと考えているのではないか。それは簡単ではないから、決して「俺は理解している。お前たちも理解しろ」というような態度には結びつかないと思う。■時間をかけてでもこのレベルの理解に追いつきたいと考えることができているか、「一般人」が問われている。たぶん多様性を受け入れるのに必要な態度と同じか似ていると思う。多様なものは自分の理解や想像の外にも広がっているから、自分が理解可能、許容可能な範囲の中だけに限ることができないから、努力と妥協なしには共存できない。■■■「chokudai(高橋 直大)🌸🍆さんはTwitterを使っています 「大企業の役員さんレベルと話すと、やっぱめちゃめちゃ頭の回転とか認識能力とか高くてやべーなー、ってなる。AtCoderが出来る人とはまた違う凄さを感じる。」 / Twitter」 自分が想像するのは、理解が及ぶ広さ、深さ、早さに優れた人。それを備えていることが会う人にどのような印象を与えるのかは、会う機会がないので知りません。