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脳log[20211005]



2021年10月05日 (火) 自分のおばあちゃんくらいの世代の人が「行かれる」とか「歩かれへん」という言葉を使っていたイメージがある。行かれるは可能以外の用法も考えられるが、歩かれへんは歩けない以外の意味は考えられない。自分世代なら歩けへんと言う。最近こういう記事を見かけたが(「「ら抜き言葉」で抜かれているのは「ら」ではなかった?「目から鱗」「言われてみれば確かに」 - Togetter」)、ら抜きが行き過ぎた可能動詞化だとすれば、これらは可能動詞以前の形態だと考えられる。『ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密』という本がある(未読だけど)。子供にとって(たぶん日本語学習者にとっても)歩ける、走れるからの推測で食べれると言ってしまうのはある種の必然なのだろう。自分が小学生の頃は食べれるは食べられるの間違いだと目くじらを立てるくらいにはら抜きが使われていたし、だけどら抜きで何が悪いと開き直れるほどには広がっていなかった。普通一度訂正されたら一生守るよね。二度目は死ぞ。自分は本で読んだ言葉、教科書に書かれていた文法を重んじているが、自然言語はプログラミング言語などと違い文法は後付けの解釈だ。言葉も教科書も移り変わり正解はひとつではない。ATOK では送り仮名を必ず本則に設定するのだが、それ以外が間違いというわけではない。ら抜きは拙く聞こえるしダサいので絶対使わへんけどな! たとえ風俗を写し取るためだったとしても、本の中で使われていたら読み進めるのは苦痛だ。だけど自分から見て上の世代の人がら抜き言葉を話すのもまた、テレビで垣間見える世間で当たり前の光景なんだよね。口語はすっかりら抜きに席巻されてしまった。自分を中心に置いて上と下を見ると時代の流れがわからなくなる。聴覚優位で下の世代の人間はら抜きしか聞こえてこないのでら抜きが当然。では上の世代の人間は? 自ら変化していった? 変化に取り残される人間もいる。省略と拙速は「お嬢様」には似つかわしくありませんことよ。でもさ入れは嫌かも。